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また、夢を見て泣いた。
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小学校一年生の頃、近所に大学生のお兄さんがいた。
名前も顔も、今ではもうはっきりとは思い出せない。
けれど、その人が時々、僕と遊んでくれたことだけは覚えている。
何をして遊んだのかも、細かいことはほとんど忘れてしまった。
鬼ごっこだったのか、キャッチボールだったのか、どこかへ連れていってくれたのか。
記憶はところどころ抜け落ちていて、ただ、楽しかったという感触だけが残っている。
それは、子供同士で遊ぶのとは、少し違っていた。
同じ目線でふざけ合うのではなく、こちらの知らない世界を少しだけ見せてもらうような感じがあった。
子供だけでは思いつかない遊び方を知っている。
子供だけでは届かない場所に、簡単に手が届く。
それがただ嬉しかった。
そのお兄さんの夢を見た。
夢の中で、僕はまた子供だった。
お兄さんは昔のまま、何かをして僕と遊んでくれていた。
何をしていたのかは、目が覚めた瞬間にほとんど消えてしまった。
ただ、目が覚めた時、僕は泣いていた。
楽しかったから泣いたのか。
もう戻れないと思ったから泣いたのか。
あの頃の自分が、まだどこかに残っていたから泣いたのか。
たぶん、その全部だったのだと思う。
夢というのは、忘れていた記憶の図書館みたいなところがある。
普段はもう取り出せない棚の奥にしまわれた時間が、眠っている間だけ、ふいに開くことがある。
忘れたはずの顔。
忘れたはずの声。
忘れたはずの空気。
もう二度と戻れないと思っていた時間に、夢の中でだけ会えることがある。
勿論、それは夢だから本当ではない。
けれど、嘘でもない。
夢の中でしか会えない記憶がある。
夢の中でしか戻れない時間がある。
それは夢でありながら、確かに自分の中に残っていた本当の時間を再生しているのだと思う。
大人になるというのは、誰かに遊んでもらう時間から遠ざかっていくことでもある。
自分のことは自分でやる。
自分の機嫌は自分で取る。
楽しみも、予定も、支払いも、責任も、自分で引き受ける。
そうやって少しずつ、誰かが用意してくれた遊び場に無邪気に入っていく感覚を忘れていく。
けれど、忘れたつもりでいても、心の底には残っている。
大人になってから手に入れた時間。
ライヴへ行くこと。
映画や芝居を見ること。
自分には作れない時間を、誰かが全力で差し出してくれる場所へ向かうこと。
それはもしかしたら、子供の頃に大人に遊んでもらっていた時間を、別の形で再現しているのではないかと思う。
暗い客席で、照明が落ちるのを待つ。
音が鳴る。
日常とは違う時間が始まる。
自分では作れない世界に、しばらく身を預ける。
そこには、大人になっても消えなかった童心がある。
いつもステージから客達を見ていて、ふと思うことがある。
客席にいる人たちは、もちろん子供ではない。
それぞれに生活があって、仕事があって、疲れがあって、事情がある。
今日ここに来るまでに、いくつもの現実を通ってきている。
それでもライヴが始まると、表情が変わる瞬間がある。
腕を上げる。
声を出す。
笑う。
泣く。
目を輝かせる。
何かを忘れたような顔になる。
あるいは、何かを思い出したような顔になる。
あの顔を見るたびに思う。
人は大人になっても、遊ばせてもらいたいのかもしれない。
正しく言えば、心の奥に残っている子供の部分を、安心して外に出せる場所を探しているのかもしれない。
そしてステージに立つ側は、そのための場所を作っているのかもしれない。
ただ音を鳴らしているだけではない。
ただ曲を演奏しているだけではない。
誰かの一日を、少しだけ別のものに変える。
誰かが普段しまいこんでいるものを、少しだけ外に出せるようにする。
一晩だけの遊び場を作る。
小学校一年生の頃、近所のお兄さんが僕と遊んでくれた。
あの時のお兄さんは、たぶんそんな大袈裟なことを考えてはいなかったと思う。
ただ近所の子供と遊んでくれただけだったのだと思う。
それでも、何十年も経ってから夢に見るくらい、僕の中には残っていた。
だとしたら、ライヴもそういうものなのかもしれない。
そして、自分も大袈裟に考える必要はない。
この夜のすべてを覚えていなくてもいい。
曲順を忘れても、MCを忘れても、細かい景色が消えてしまってもいい。
ただ、楽しかったという感触だけが残る。
誰かに遊ばせてもらったような、少しだけ子供に戻れたような感覚が残る。
大人になったら、誰も遊んでくれなくなる。
だから人は、自分で遊び場を探す。
あるいは、誰かのために遊び場を作る。
今度は自分が、誰かの中にそんな時間を残せたらいい。
そんなことを思いながら、また僕は夢を見て泣きたいと思った。
